作編曲者のための
尺八 考座

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シリーズ31
−−− 
泣きのぐぃたぁを尺八ってみる   −−−
「尺八的ダーウィニズム乃スゝメ」

 最近、音源を
YoutubeにUpするようにしてますのは、
ご存じの通りです。
(なにせ容量が…ネ)

んで、
そうすると、
音源に伴う解説と
ここに書かれる
内容が

ダブる
わけでして。

そんなワケで、
今回は
Youtubeの映像に
埋め込んだ文書と

じぇんじぇん
ちゃう!


てぇことを書きます。

================

前置きはこのくらいと致しまして、

今回のテーマは、

「尺八的ダーウィニズム乃スゝメ」

です。
(だから「
座」なワケ)

で…

いきなり最初に申し上げることは、

五孔を七孔にしても
失うモノは
何もないっ!

ってことです。

正しくは、

「音楽的に」
失うモノは何もないっ!

と、言っておきます。

いきなりですみません。
尺八にあまり詳しくない方は
誠に申し訳ありませんが、
尺八とは?
を、先にご覧ください
せ。

七孔にすると
たった一つですが、
音楽的に
得るモノがあります。

その代わりに、
失うモノがあります。

でも、
良く考えると、
失うモノの内、
音楽的なモノ
ひとつもないんだな…

これは、
あくまでも
楽器としての
尺八のハナシです。

例えば、宗教の
「法具」
としての尺八だったら、
七孔はちょと違うでしょね。

でも、
それは
決して
「音楽的」な、
理由ではないです。

こんなコトを言うと
一部のヒトは言うでしょう。

「そんなことはない!
五孔管を七孔にすると
鳴りが変わる


と。

その通りです。
鳴り、変わります。
特に短い管はその傾向が顕著です。

でも、腕の良い製管師なら
その程度の不具合は直してしまう。

だから、
音楽的にはカンケー無い。
ここで失うものはカネと手間なんですね。

(ちなみに1尺8寸管では、殆どの場合鳴りの変化は気にならない)
(1尺6寸管では変化するのが多いが内径修正に至るほどのものは少ない)

五孔管こそが
「是」
である、と、
信じている師匠に付いている人は
七孔にすると、
人間関係を損なうかな?

生業にしていたら
仕事も失うかもね。

でも、
それは、
決して
「音楽的損失」
じゃない。

一番大きな損失は、
今まで大切にしてきた
五孔アイデンティティ
かな?と思う。

これは、
音楽的なモノに
影響を与えるかも知れない。

けど、
それは
あくまで
メンタルな部分が派生して
音楽に影響を与える可能性であって、
直接に音楽的ぢゃない。

それに
「影響を与える可能性」
であって、
それは損失でもなんでもない。

だって、
七孔ってのは、
孔が2個増えるだけで、
それが不要なら、
塞いでおけばいい。

上達すれば、
常時指で塞いで
五孔管として演奏することだって、
まったく問題無く可能ですから。
(もちろん、訓練は必要です)

-------

さて、
今回こんな事を
書くのは、
録音した曲の性質の為です。

「哀愁のヨーロッパ」

この録音に際して、
KEIZANは

欲しい音色を欲する所で使う

という、
アタリマエの選択をしています。
(今回は特に試行錯誤が多かったのよ〜)

七孔管を使いつつ、
随所に
五孔管特有の

「音色」

「手」

を、使い、
もちろん七孔も使って。

このような試行錯誤を行い
演奏することによって、
このような曲でも、

「尺八らしさ」

を、
全面に押し出した演奏ができるのだと、
KEIZANは確信しています。

この曲を
五孔管仕様で演ると、
尺八の
「音楽的不器用さ」

随所に突出
してしまい、

「つまらなく」

なってしまいます。

七孔管での演奏のほうが、
尺八という楽器の良さ
が主張できる
典型的な曲だと思います。

---Europa---


イロイロなジャンルの音楽を
尺八で演ってみて
思うのですが、

何を演っても
「音楽的に尺八のままで居られるか?」
というところを問うた場合、
選択肢は七孔しかない、
と、KEIZANは結論付けざるを得ません。
イマノトコロデスガ

KEIZANが
7孔を使うのは
7孔管の方が
「尺八的」
な奏法が可能だからであると
断言できます。

七孔にして得るものは、
奏法の
オプションが増える。

だけです。

一方、
現時点で残っている
歴史的尺八奏法で、
失うものは
一切ありません。


現在の、
正確に調律された
「楽器」
になってしまった時点で、
尺八は既に
失うものを全て
失い切っているのです。
…というハナシは、
また別の機会に…


今回の
泣きのギターは、
7孔管を使いつつ、
随所に
5孔管の指使いをしています。

でも、

その
合理的理由
なんて
無い
です。

そっちの方が、
音楽的に
心地良いと
思ったから。

もっと言えば
「好みだった」
から。

ただ、
それだけのことです。

========

「伝統を守る」
のも、
尺八の道のひとつではあると思う。

でも、
俺は
尺八と言う
類い希なる楽器の
可能性を
拡大する
アプローチを、

つまり

「多様性」

を、
選ぶ。

ヒト
それぞれ…だ。

それを
「ダーウィニズム的」
と、いうのである。


(2011.10.15)
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